創立50周年にあたり
この記事は、日刊海事プレス連載「次代への戦訓」連載記事。海事プレス社の許諾を得て掲載しています。
次代への戦訓 フィリピン人船員とともに50年
ワールドマリン名誉会長 木内志郎氏①
“日刊海事プレス 2022年11月14日(月)掲載”
今年11 月14 日に創立50 周年を迎えた船員配乗・船舶管理会社のワールドマリン。現在同社の名誉会長となっている木内志郎氏(千葉商船名誉会長)が、近海船運航など海運業の経験と知己のネットワークを活かし、1972 年に創業した。為替の円高が急速に進行した時代。
国際競争力を維持するために日本海運で高まっていったフィリピン人をはじめとする外国人船員の需要に応えるとともに、その事業を通じてフィリピン国の経済に貢献してきた。ワールドマリン立ち上げから50 年を迎えるに当たり、その半生を振り返っていただいた。
私は今年で89歳になり、ワールドマリンはおかげさまで創立50周年を迎えることができた。当社の設立は1972年で、これから円高の波が来るぞ、という時代背景だった。
私は学校を卒業して最初に山下汽船に入社した。それから同社に勤めて船荷証券の発行などの業務をしていた時に、東南アジアの運航会社からお声がけいただき転職した。経済成長を背景に日本から東南アジアに大量の品物が輸出され、帰り荷として南洋材を運んで日本に戻るトレードが、近海で最も収益性が高い航路だった。その会社で5年ほど働いた後、今度は東京・木場の網中木材からお声がかかった。
網中木材は商社経由でフィリピンから南洋材を輸入していた。商社経由ではなく直接フィリピンに行き南洋材を選んで買ってこよう と思っても、南洋材の輸送同盟が厳しかったことで運ぶ船を手配できないという悩みを抱えていた。そこで、自前で船を造るから運航してほしいという話をいただいた。それが、私が船舶の運航に関わったきっかけで、日本・フィリピンの同盟や、日本・香港・シンガポール・ペナンのアグリーメントに加入して、運航会社を始めた。この頃、台湾の代理店であった現在のエバーグリーンの故・張榮發総裁とも親交があった。
当時は固定相場制で1ドル=360円の時代。その後、変動相場制に移行し、急に円高が到来した。円高はみるみる進行し、280円、200円になり、最終的には70円台まで進んだ。360円の時にはとても儲かっていたのだが、280円になると満船にしても赤字になる状態だった。このまま会社を続けていたら大変なことになると困っていると、たまたま私の会社を買いたいというところが出てきた。その会社は楢崎産業で、東京や阪神の港湾荷役に進出することがねらいだったようだ。当時、多くの近海船運航会社が経営難に直面したが、私は会社を売却することで助かった。
次に何の仕事をしようかと考えていたところ、フィリピン人船員を日本の船主に派遣するマンニング会社(船員配乗会社)を始める機会を得た。フィリピンのマンニング会社の船員を当社が代理店となって日本の船主に派遣するビジネスで、このような会社を立ち上げたのは日本で最も早かったのだが、それは偶然の幸運に恵まれたことによるものだった。
当時、カーゴクレームが最も少ないのはフィリピン人が乗り組んでいた船だった。フィリピン/日本航路で配船していたノーザンラインという船会社があり、フィリピンのマルコス大統領の懐刀で、日本の大使を務めていたボービー・ベネディクト氏が経営していた会社だった。ノーザンラインにいた私の友人から、日本の船主向けに船員を派遣したいと持ちかけられた。私も運航会社で船員確保に苦労した経験があったので、フィリピン人船員に助けてもらおうと考え、マンニング業を始めた。ノーザンラインからフィリピン人船員の派遣を受けて、1972年の会社設立と同時にマンニング業を開業することができた。2~3隻のマンニングから始めた。
派遣されてきた船長や機関長は優秀な人ばかりだった。その後、ノーザンラインは倒産してしまったが、同社にいた友人のキャプテン・ロペスから、ノーザンラインの船員をベースとしてマンニング会社を設立し船員を派遣したいという話があり、当社としては大歓迎だと応じた。ノーザンラインの優秀な船員を日本の船主に派遣したことが、ワールドマリンのマンニング業のベースとなり、その後事業を拡大することができた。
ワールドマリンの立ち上げ当初からフィリピン人配乗ニーズはかなり多かった。看板を上げただけで営業をしなくても仕事をいただけて、対応に間に合わないほどだった。船員は教育期間が必要なので簡単にそろえることはできないが、当社の場合はノーザンラインをルーツとする船員がいたことが幸いした。
キャプテン・ロペスの会社のフィリピン人船員を起用してマンニング業を続けていたが、ロペス氏が亡くなり次世代に引き継ぐと体制が変わり、それまでと同様の船員の質を維持できないおそれがでてきた。そこで自社でフィリピンにマンニング会社を立ち上げることにした。それが1977年に設立したレオニス・ナビゲーションだ。フィリピン海外雇用庁(POEA)のルールで外資の出資比率は25%以内と決まっていたので、当社は25%を出資し、残りは他の株主に入ってもらった。
レオニスは船長、機関長を長年務めた人が社長に就くことをポリシーとしている。ノーザンラインの船長や機関長の出身で当社グループの幹部になった人は多い。ちなみに、当社グループで最初に不動産を保有したのもレオニスで、資産を保有していることはスタッフの精神的な安定にもつながったのではないだろうか。レオニスは今年9月に新体制となり、新たに社長に就任したキャプテン・タガットは父親もレオニスの出身で、ワールドマリンで船舶管理監督も務めた人物。親子2代にわたって当社の精神が受け継がれているのは嬉しいことだ。当社にとってはフィリピン人の素晴らしい友人たちがいたことがとても幸運だった。
次代への戦訓 事業がフィリピン国への貢献に
ワールドマリン名誉会長 木内志郎氏②
“日刊海事プレス 2022年11月15日(火)掲載”
日本人船員が減少すると同時に為替の円高で日本人のコストが高くなっていく中、フィリピン人船員に大いに助けてもらった。1985年のプラザ合意の頃に1ドル=240円ほどになっていた為替は、同合意以降、急激に円高が進んだ。用船料収入がドルである日本の船主が生き残る上で船員費のドル化は避けられなかったし、それが今の日本海運を支えているといっても過言ではない。また、ドルベースの給料はフィリピン人に好評で、フィリピンから見たら外貨獲得という時代のニーズにマッチしていた。創業から10年ほど経った1983年に放送されたNHKのテレビ番組で、日本の船にフィリピン人船員を手配する会社として取材を受けたこともあった。
フィリピン人船員は、為替の円高局面のみならず、日本海運の船隊拡大局面でもマンパワーやコストの面で日本を支えてくれた。フィリピン人船員がいなければ日本海運は成り立たなかっただろう。船員供給国はフィリピンのほかにもインドネシアやミャンマーなどさまざまあるが、今なお、日本にとって主要な船員ソースはフィリピンとなっている。
ワールドマリンはフィリピン人船員のマンニング業を始め、徐々に事業の規模を拡大していく中で、船主からの要望で韓国人や中国人の船員を派遣したこともあった。韓国には現地法人を設立し、中国では2002年にコスコグループのSino-COSCOMAN Beijing社に出資することで、両国の船員を確保した。
2000年代に入り新造発注ブームが到来し、船員需給のひっ迫でフィリピン人の船員費が上がっていく中、中国は中国人船員をアピールし始めた。当時、中国人の船員費はフィリピン人よりも、1隻当たり年間で1000万円も低かった。例えば10隻保有している船主にとっては1億円の差になり、非常に大きい。中国人船員の配乗ニーズが高まったことで、当社も中国人船員のマンニングを始めた。ただ、中国の経済成長で陸上の仕事へと魅力が移っていったことに加え、船員の国籍に関係なく船員費がほぼ同水準になっていったことから、コスコと相談の上、合弁関係を解消することとなった。
今ではワールドマリンはフィリピン人のほか、インドネシア人などを配乗している。フィリピンは自営のマンニング会社であるレオニス・ナビゲーションを通じて船員を確保し、インドネシアはマンニング業に外国資本が入れないので信頼できる代理店を起用している。
船主が自社で外国人船員のマンニングをしたいと考えても、現地に会社をつくり船員を確保するのは容易ではない。実際に取り組んだ船主もいたが、大手船主も含めて失敗に終わった会社は少なくない。船主自身で簡単に船員を手配できれば当社の役目は無かったと言える。われわれのような専門家が頼りにされていった。
日本商船隊は、以前は日本人と外国人の混乗船が多かったが、その後に外国人全乗のニーズが出てきた。まずは小型船の外国人全乗から始まったが、中大型船であるパナマックスやケープサイズはトップ4(船長・機関長、一等航海士・一等機関士)が日本人、その他の職員がフィリピン人という混乗が続いた。それを、当社が初めて、日本郵船向けのケープサイズをフィリピン人全乗とした。その後、日産専用船の自動車船でもフィリピン人全乗を手配した。
次代への戦訓 船主業に進出、千葉商船を設立
ワールドマリン名誉会長 木内志郎氏③
“日刊海事プレス 2022年11月16日(水)掲載”
ワールドマリンは1986年に船主業に進出した。最初に建造・保有したのが、伊藤忠商事の仲介で、昭和海運が大昭和製紙から積荷保証を得たチップ船の“恵昭丸”。同じく1986年には鉄鉱石と石油を積載できる当時世界最大級の鉱油兼用船“Grand Phoenix”を昭和海運との25年間の用船保証の下で建造した。
初めはワールドマリンの事業として船主業を行っていたのだが、「良い船員を自社の船に優先して配乗するのではないか?」という冗談も聞こえてきたので、マンニング業と船主業を分離することにし、船主業の千葉商船を1979年に設立した。事業の特性上、多額の負債を抱える船主業を別会社に分離したほうが会社の目的がより明確になることと、次世代に引き継ぐときによいであろうという考えもあった。
会社を軌道に乗せるまでに最も苦労したのが為替変動への対応だった。私が山下汽船(当時)に勤めていた頃は、1ドル=360円だったので、当時の船会社はみな儲かっていた。しかし、日本の国力が強くなるほど円高になり、ドル収入・円コストの海運業界はダメージを受けた。1ドル=70円台まで進んだので、ドルベースの収入が円に換算すると5分の1に。とてもやっていけないような状況になった。
ワールドマリンの顧客である日本の船主も大きな影響を受けた。私の出身会社である山下汽船、当時の山下新日本汽船が用船者となって、ワールドマリンが船舶管理を行うという仕組みで、2万8000重量トン型バルカーを新造する四国の船主に対して、その当時の為替水準である1ドル=280円を前提とした用船料を保証してもらうようにアドバイスしたことがあった。さらに円高が進めばそれだけ円ベースの収入が減り、船主の経営に大きな打撃を与えるからだ。その前提でなければ、当社としては船舶管理を引き受けられないと伝え、船主は280円を用船者から保証してもらい、15年間の用船契約を締結するに至った。その船は順調に動いていたのだが、その船主が造船所、用船者、銀行と相談して別途建造した4万2000重量トン型バルカーが円高進行で採算が取れなくなり、最終的に私がコンサルタントをした2万8000重量トン型船とともに売船せざるを得なくなってしまった。残念ながらその船主はもう存在しない。海運業界は今日でも為替の変動には苦労している。
千葉商船の船主業の特徴はVLCCを保有していることで、VLCCの保有実績は延べ15隻ほどになる。もともと昭和海運向けの鉱油兼用船“Grand Phoenix”を保有していたことで、VLCCの話もいただくようになった。VLCCは昭和海運向けが最初だった。当社がファイナンスを確保して建造し、用船に出すことで、船会社はオフバランス化でき、財務内容の悪化を避けられる。最初はそのような役割が大きかった。昭和海運とある程度技術を共有し、千葉商船はタンカーを保有・管理できる会社となった。
日本の独立系船主の中でVLCCを保有できたのは千葉商船だけだったので、単純に用船に出すだけではなく、当社が低金利で金融機関から資金調達して船を買い取り、リース会社の立場になって、日本の船会社に用船に出し、手数料をいただくという仕組みをつくった。これにより、船会社の金利負担の低減とオフバランスのニーズに対応していった。現在もVLCCを保有し、日本の船会社に貸船している。
次代への戦訓 マルシップ制度発足で助言
ワールドマリン名誉会長 木内志郎氏④
“日刊海事プレス 2022年11月17日(木)掲載”
マンニング会社からスタートしたワールドマリンは1990年から船舶管理業にも展開していった。船舶管理業を始めたのは、マンニング業において船員教育を行う上で、技術者を確保することが必要だと考えたからだった。1000 ~ 3000重量トン型の小型船しか運航したことがない四国の船主が、2万8000重量トン型や4万重量トン型の船を造るに当たって、自社で船舶管理システムやノウハウを持っていなかったので、当社がその業務を担った。これにより当社は管理船を増やしていった。
船舶管理を始めたのはもう1つ目的があった。船主に船長や機関長など船員を配乗する際に、各職位の「経験者」を乗せてほしいという要望を受けることが多かった。例えば、一等航海士から船長にプロモートしたばかりの人は乗せられない。しかし、その要望に応えていくと、船員はプロモートできずに同じ職位で年齢を重ねていくことになってしまう。そこで管理船を用いて船員をプロモートしていこうと考えた。
当社がマンニングのみならず、船舶管理を実施できるようになったのは、 “恵昭丸”や“Grand Phoenix”という自社船をワールドマリンや千葉商船を通じて保有したことが大きかった。自社船の管理で培ったノウハウを生かして、外部の船主向けに船舶管理サービスを提供していくことができた。
管理船を増やそうと思えば100隻や200隻にすることも可能だったが、当社にとって船舶管理を行う主目的は前述のように技術者の確保だったので、私は20 ~ 25隻くらいが適正規模だろうという考えを持っていた。このため基本的に管理船を増やさなかったが、2004年からの新造船発注ブームで船主は船を造りたいが管理ができないというので、それまでお世話になった船主の皆さんに当社ができる範囲のキャパシティを提供し、40隻ほど管理した時期もあった。その後、発注ブームが落ち着いたので20隻ほどに戻した。
また、ある時、旗国主義に基づいて、日本籍船には日本人船員しか乗せられないようにする法律を制定する動きが出た。当時、政権の国会対策委員長をやっていた友人に、このような法律が通ったら大変なことになると訴えた。どのように大変なのかと問われ、乗船しているフィリピン人を全て降ろさなければならなくなると説明した。当時の運輸省にも、海運会社が困るような法律をなぜ通すのかと訴えた。では、どのような方法ならよいのかということで、日本法人が所有する日本籍船をパナマなど外国法人に裸用船で貸渡し、その外国法人が配乗権を持って外国人船員を乗せた上で、日本法人が用船するスキームならどうか、と助言してできたのがマルシップ制度だった。島国の日本が、自国籍船を持てないことは、国の安全輸送や安全保障を考えると大きな問題だと思う。
50年間の歴史の中で記憶に残っていることの1つはマンニング会社がメンバーとなった国際船員協会(現・国際船員労務協会)の立ち上げに関わったことだ。当社はフィリピン人船員とチームを組んで事業を行ってきた。日本のマンニング会社同士のチームワークも大切だと考えて、1984年に国船協を設立した。団結することで、官庁に要望をするにも、ITF(国際運輸労連)や労働組合と交渉するにも、個社で対応するよりも力を発揮できると考えた。私は国船協設立を言い出した立場だったので、会長はユニトラ海運の藤木清さん、理事長は太洋産業貿易の今田圭明さんにお願いし、私は理事を長年務めさせてもらった。
次代への戦訓 「利益より社員の生活」をポリシーに
ワールドマリン名誉会長 木内志郎氏⑤
“日刊海事プレス 2022年11月18日(金)掲載”
幸い、当社は創立以来50年間、安定経営を続けてこられた。マンニング業に関して危機的な状況に陥ったことはなかった。1995年に為替が一時、1ドル=70円台になった時は大変だったが、為替の変動の影響を受ける海運業界において、今日まで存続できたことは、マンニング会社を始める前に海運業に身を置き、為替を管理する知識を得られたことが幸いしたのだろう。若い時に東南アジア航路のオペレーションを経験したことも、その後の事業運営で大きなプラスとなり、それをきっかけにフィリピンとの付き合いができた。日系のマンニング会社で、残念ながら潰れてしまった会社も多い。この業界では長期計画を立てて地道に取り組んでいくことが大事なのだと思う。一時的に良い状況でも必ず悪い時が来る。悪い時に耐えられるように備えておくことが重要になる。
私の経営ポリシーは、会社の利益よりも、従業員の生活の安定が基本であるということ。この考えに沿って経営し、また、私を頼ってきてくれた人を絶対に失望させないという方針で取り組んできた。
仕事を通じて多くの方々にお世話になった。千葉県の佐原中学・佐原高校のクラスメートには「よど号ハイジャック事件」に対応した山村新治郎さんがいた。彼は自民党の代議士になり、「よど号」の人命を救った後、運輸大臣や農林水産大臣などを歴任した。また、全日本海員組合の副組合長を務め、後に民社党の代議士になった和田春生さんとの交流もあった。
友人は非常に大切だ。フィリピンの友人にはキャプテン・ロペスがいた。彼はスペイン人でフィリピンに移り、同国で遅れていた海運事業を立ち上げようと、ベネディクト氏とともにノーザンラインを設立した。彼は本当にフィリピンの船員を愛した素晴らしい人だった。また、AMOSUP(フィリピン船舶職員部員組合)の前組合長であるキャプテン・グレゴリオ・オカとも交流があり、彼がヤボットオーシャンラインというフィリピンの船会社のポートキャプテンをやっていた頃に、私が若いころに勤めていた会社が日本のエージェントを務めていたことで知り合った。そのような方々にとても可愛がっていただいた。
人は話し合えば絶対に分かり合えると思う。ライバルであればこそ、よく話し合うことが大切だ。国際船員協会を設立したのも、同業者や労組側とよく話し合わないといけないという思いがあったからだ。それは国と国の関係でも同じことが言えるだろう。
海運業界に身を置き、私は非常に幸せだった。人と衝突したり摩擦が生まれると火花が出るが、相手の言葉をよく聞き、よく考えて、周りの人のため、特に社員のために頑張れば、会社は自然と発展する。
ワールドマリンから船主業を分離して千葉商船を設立した時に、最初に株主になってくれたのが、東京海上日動火災保険だった。その後、現在の損保ジャパンも加わってくださった。会社をゼロからスタートした時にこのような有力企業が出資してくれたことはとても大きなことだった。それ以来、43期にわたり千葉商船に出資を続けてくれている。このような株主構成は、金融機関から円滑な資金調達をできる1つの理由になったかもしれない。千葉商船は継続して利益を上げ、配当できているので、その点で少しはお返しできているかもしれない。
私は早くに社長職を譲り、それ以降はお世話になった地域への恩返しのつもりで活動を行ってきた。出身地が千葉県佐原市なので、地元貢献のため、国際交流協会の会長や、佐原はお祭りが世界遺産になっているのでその保存会の会長をしたりした。社長職、会長職を引退し、社業を後進に任せてからもマニラには毎年行き、フィリピンの旧友と再会するのは楽しみだった。 海事産業の後進にメッセージを送るとすれば、日本にとって海運は必要不可欠な重要な産業だということ。海運業は、スイスのような内陸国であっても栄えることができるが、島国である日本にとって、安全保障の上でも生活する上でも船は絶対に必要だ。このことを改めてお伝えし、私の話を終えたい。(連載終わり、取材・構成:日下部佳子)